心はいくつある?
普通私たちは、心は幾つあるかというと、1つだと思っています。
ところが仏教では、私たちの心は8つあると教えられています。
それが「八識はっしき」です。
「識」は心ということで、八識は8つの心ということです。
どんな8つかというと、次の8つです。
眼識げんしき
耳識にしき
鼻識びしき
舌識ぜっしき
身識しんしき
意識いしき
末那識まなしき
阿頼耶識
7.末那識とは?
末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着する心です。
意識は寝ている時や、卒倒した時には途切れます。
意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのに、なぜ迷いが続くのかというと、末那識という途切れない心があって、意識が途切れている時も、末那識が悪を造り続けているからです。
本当は無我なのに、末那識はいつも阿頼耶識を固定普遍の我だと思ってしまうのです。
8.阿頼耶識とは?
阿頼耶識については、初心者向けの本には、このように表現されています。
一切を生み出す可能力を有した根本の心
出典 :横山紘一著『やさしい唯識』
それでも少し難しいと思いますのでわかりやすく意味を解説します。
「阿頼耶識」の「阿頼耶」とは、蔵のことです。
例えば、「ヒマラヤ」は、サンスクリット語で「ヒマ(hima)」+「アーラヤ(ālaya)」ですが、
「ヒマ」は雪のことなので、ヒマラヤは雪の蔵ということです。
ですから、「阿頼耶識」とは、「阿頼耶」+「識」で、
「識」は心のことですから、阿頼耶識は「蔵の心」ということです。
「蔵識くらしき」ともいわれます。
蔵というのは、普段はとても静かです。
母屋には家族が集まって、一家団らん、楽しく過ごしているのですが、
普段から蔵に集まって活き活きと生活している家族はありません。
ところが蔵には、お米や財産など、大事なものを保存しておきます。
そして火事が起きたときでも、蔵は土でできていますので、
燃えずに残ります。
火事がおさまった後に、
蔵からお金を出してきて、
再び母屋を建てることができるのです。
それと同じように、私たちの肉体は、
生まれたときにできて、死ねば滅びます。
ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、
肉体が滅びても、滅びることなく続いていきます。
果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、
私たちの永遠の生命を阿頼耶識というのです。
それはちょうど、とうとうと流れる大河のようなもので、
肉体は、川面にできたあぶくのようなものです。
あぶくができようが消えようが、
河の水は、増えもしなければ減りもしません。
私たちの本心は、阿頼耶識なのです。